新生会ゆかりの人② 原田忠司(はらだ・ちゅうじ)

写真は原田忠司と、谷戸家の前にある調布市観光協会の看板 (谷戸忠司氏提供)

旧甲州街道を布田駅前交差点から新宿方面に歩いて約300㍍。道路左側に建つ5階建てマンションの右脇に調布市観光協会の「近藤勇と新選組ゆかりの地 天然理心流原田(谷戸)道場跡」という案内板があります。幕末、天然理心流3代目・近藤周助の弟子で、新選組局長の近藤勇とは兄弟弟子の原田忠司がここに剣術道場を構えていました。

 

原田忠司は新選組とは関係ありません。文化14年(1817年)生まれなので、1834年に生まれた近藤勇より17歳年長。勇が新選組として京都に赴いたのは29歳のときですから、忠司は46歳。当時としては、肉体を酷使する年齢を過ぎていました。

そうしたこともあって、原田忠司の名前は近年まで、一部の天然理心流研究家を除けば、ほとんど知られていませんでした。「新選組始末記」の作者として知られる時代小説家・子母沢寛の小説「逃げ水」の中に、その名前が1度出てくる程度です。しかし、1972年に発刊された「新選組隊士列伝」で、「剣術使い 島崎一、原田忠司」という見出しで紹介されました。小野路村(現町田市小野路町)名主で、近藤勇の支援者だった小島鹿之助の屋敷内にあった剣術道場に、原田忠司がしばしば通っていたとあります。これをきっかけに忠司の子孫である谷戸(やと)家と、小島政孝氏との交流が生まれ、忠司の遺品を調査するなど研究が進んで、天然理心流関連の著作や研究論文などでも紹介されるようになりました。

 

谷戸家の言い伝えによりますと、原田忠司は九州から流れてきた浪人者で、当初は下染屋村(現在の府中市白糸台付近)に住んでいました。世相が乱れていた幕末、国領の名主だった谷戸市兵衛に用心棒として雇われ、やがて谷戸家の下屋敷が無住だったことから、そこに住んで谷戸の姓を名乗るように言われたそうです。忠司は改名して谷戸次左衛門と名乗りました。

 

忠司が天然理心流といつ、どのようにして繋がったのかは何も伝わっていません。ただ、近藤周助から目録を授けられたのが天保10年(1839年)で22歳の時でしたから、20歳前後で天然理心流を学んでいたことが推測されます。近藤勇が天然理心流4代目を襲名したとき、府中の大國魂神社で同派の剣士が一堂に会し、紅白に分かれて野試合を行っていますが、忠司はその際に審判役である軍目付(いくさめつけ)を務めていることから、当時の天然理心流の中でも高位の存在であったと思われます。

 

小島家に伝わる書物で、明治30年に橋本清淵と言う人が編纂した「両雄士列伝補遺」という書物があり、原田忠司について記しています。「身長56寸(約170)で体力が強く、最も組打ちを得意とした」。「同門の嶋崎一と、神田お玉ヶ池の千葉周作道場(北辰一刀流)に行き、数百の門人と試合して後れを取ることがなく、周作が大いにその術を賞賛した」とあります。後半の部分はかなり誇張されているフシがありますが、相当の実力者であったことが窺えます。

 

忠司の遺物は明治以降、昭和初期までに多くが散逸してしまい、現在も残っているのは、忠司が使用したと思われる大小の日本刀(かなり錆びている)と、天然理心流の中極意目録の巻物など数点です。谷戸家は忠司の子息が剣術を受け継ぎ、大正末期まで道場がありました。地元の古老が明治末期の調布の街の様子を綴った冊子には、国領に剣術道場があり、谷戸の姓をもじって「ヤットウの家」と呼んでいたと記されています。忠司の二男である原田亀蔵という人は、明治10年代から20年代後半にかけて関東地方各地を武者修行しており、多くの剣士と試合をしたことを記した「英銘録」が残っています。

 

参考文献 「逃げ水一、二」(子母沢寛)

     「新選組隊士列伝」(1972年 新人物往来社編) 

     「郷土の七十年」(1979年 竹内武雄)