新生会ゆかりの人① 市川銕琅(いちかわ・てつろう)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 市川銕琅は昭和の時代に数々の木彫品を制作した名工です。14歳で当時の著名彫刻家に弟子入りして木彫の修業を重ね、仏像や七福神など多彩な作品を世に送り出しました。作品の多くが床の間に飾る木彫置物や茶道具など注文品であったため、広く愛好家の支持を集めました。近年は、世間一般にも知られるようになり、作品の芸術的価値が高く評価されています。

 

銕琅(本名・虎蔵)は1901年(明治34年)、調布町国領(現国領町1丁目)にあった市川家の3男として生まれました。現在の田邊歯科医院です。銕琅の経歴を記した書物では、当時の市川家は鍼灸業をしていたとありますが、周辺の旧家には足袋(たび)屋だったとの言い伝えがあり、田邊家を「足袋屋」と屋号で呼ぶ高齢者も少なくありません。銕琅が大叔父にあたる田邊公子さんによると、鍼灸師だったのは祖父(銕琅の兄)で、銕琅の父親にあたる曾祖父は足袋職人だったのではと言います。

 

1915年(大正4年)に調布尋常高等小学校を卒業した銕琅は、14歳で加納銕哉(てっさい)に師事して彫刻の道を歩みました。銕哉は明治から大正期にかけて彫刻・絵画で一世を風靡した芸術家です。銕琅は19歳のときから師匠とともに奈良に移り住み、地元の奈良一刀彫など伝統工芸を受け入れながらも、丸彫りによる写実的な表現を基調とした独自の作風を確立。古典的題材を選んだ丸彫りの置物は、現在でも多くの愛好者から支持されています。

 

市川家は、公子さんのお母様の光子さんが同じ歯科医であった田邊明氏と結婚されたため、田邊姓になりました。公子さんによれば、銕琅は年に1度ぐらい実家を訪れていたそうで、幼少時に会ったことがあり、「とても温厚な人という印象だった」と言います。晩年は耳が遠くなり、かなり大きな声で話さないと伝わらなかった。八つ頭の小芋の衣かつぎが好物で、母親の光子さんが季節になると送っていたのを記憶しているそうです。

 

銕琅は1987年(昭和62年)、85歳で亡くなりました。銕琅の作品は近年、所蔵者の遺族が相続の関係などで手放し、市場に出回るケースもあります。テレビの「なんでも鑑定団」で、20204月に銕琅作品の「皿廻人形」が鑑定依頼に出され、100万円の評価を受けています。銕琅の実家にあたる田邊家でも数点所蔵しているほか、調布市郷土博物館でも銕琅の作品を収蔵しています。銕琅が若い頃、実兄が国領の祭り囃子をしていたことなどから、自身が彫ったお面を寄贈しています。

 

銕琅の作品展は、最近では201911月~12月にかけて「市川銕琅・悦也

父子展」が調布市文化会館たづくりで開催されました。市川悦也氏は銕琅の長男で、1940年生まれ。主に木彫による抽象的な現代彫刻を制作して、海外でも高い評価を受けています。

 

参考文献  「銕琅の六十年」(市川銕琅 1986年) 

「市民の手による まちの資料情報館 市川銕琅」(調布市立図書館)

 

(写真はすべて調布市郷土博物館提供)